みんなの思い出特集!あなたにとって人生最低・最悪の日は?

本当につらい!みんなの人生最低・最悪の日は?

あなたにとって人生最低・最悪の日はいつですか?

大切な人との別れ、いじめ、怪我や病気、浮気、不倫、離婚など、人生には辛いことや悲しい出来事が沢山あります。

今回は人生最低・最悪の日というテーマで皆さんにアンケートを取りました。

人生最低・最悪の日に何があったのか。皆さんの辛くて悲しい思い出に関するエピソード、もう二度と経験したくない、本当に苦しかった話などをまとめましたのでご覧ください。

みんなの人生最低・最悪の日

ここからは、皆さんの人生最低・最悪の日やその思い出に関するエピソードを紹介します。

「学校・いじめ」の思い出

・小学校時代のいじめです。近所にヤクザくずれのチンピラパパと、元レディースのママの一家がいたのですが、そこの長男と同じ学年でした。小学校が遠かったので、登校も下校も50分近く、その男子とずっと一緒にされていました。クラスも同じでした。すごく乱暴で、傘で叩かれたり、水たまりの水をかけられたり、工場の廃水たまりの汚い水に手さげ鞄や通学帽子を投げ入れられたり、ランドセルカバーをちぎられたり、ありとあらゆるいやがらせを毎日うけていました。周りの子供は、一度止めてくれた六年生の女子が後ろからランドセルをひっぱり回されて転んでから、六年生男子以外は止めてくれなくなりました。先生も相手に『だめだよ。いたいよ。やめようね?』だけで、私には『ごめんねも、ほんとは心では思ってるんだよ。許してあげてね』と話を終わらせるので、だんだん言わなくなりました。ごめんねなんて心にもないだろうと思いますけどね。四年生の時に、よい担任の先生にあたり、やっと五年生からクラスも登下校も離してもらえました。三年生までは本当に最悪の三年間でした。

・小学生の頃、いじめにあっていた時のことです。当時通っていた学校はおとなしい子が多かったのですが、ちょっと言葉のきつい、派手めな子が転校してきて学校の雰囲気が一転し、地味な子・変わっている子がからかいの対象になって、それがどんどんエスカレートしていきました。同情してくれる先生もいましたが、PTAの雰囲気が少し特殊な地域だったので、問題が複雑化してしまい、大人たちが心配してくれているのは分かっていましたが、いじめられているという事実が悪目立ちしてしまったのもつらかったです。学校に行きたくありませんでしたが、親の方針が「学校は行って当たり前の場所」だったので「学校に行かない」という選択肢が自分の中に全くなく、嫌な目にあいに学校に行くのがただただ嫌でした。

・私の人生で最低・最悪の思い出は、学生時代に悪質な陰湿ないじめを受けたことです。私は正直自分がいじめを受けるなんて思いませんでしたし学生生活を楽しみにしていましたので全くと言っていいくらい最悪なことでした。私の容姿が普通の人とちょっと違うからというだけで私はそれだけでからかわれたのです。物凄く嫌だったのを覚えていますし一生変わらずに嫌な気持ちで過ごすこととなると思います。こういう経験はした人でなければわかりませんしまたそういった人生を歩んだことのない人にとっては全くと言っていいくらいあまり良いことではないと思っていますので、なかなか思い出として思い出したくありません。辛い経験を経て今に至ります。

・学校生活にあまりなじめず、友達が少なかったことです。中学校、高校と、特定の人にしか心をひらかず、かつ、独占欲が強かったので、仲のいい友達がほかのこと仲良くしているところを知るだけで、嫉妬していまい、結局、その子とも喧嘩して疎遠になるということでした。ですので今でも中学、高校の同窓会や、友達との集まりに行くのが好きではありません。誰とでも挨拶して、誰とでもおしゃべりして、誰とでも仲良くできる人がうらやましかったです。反対にわたしは、プライドの高さから、友達を選んで、それ以外の人とは目も合わさないほどのひねくれものでした。よく、学生時代に戻りたいという方がいらっしゃいますが、わたしは絶対に戻りたくありません。中学、高校で友達と仲良くできなかったことが、わたしの人生で最低最悪の思い出です。

・高2の修学旅行の時、班を決める時に一人、何処の班にも入らず寂しそうにしている子がいました。クラス委員長がその子に「○○さん誰か仲良い人とか喋ったことある人いないの?」と責めるような口調でいっていました。じゃああんたの班に入れてやれよ…こんな優しくない奴が委員長かよ…と呆れました。しかしこのままじゃ埒があかないのと、私はその子と以前少しだけ喋ったことがあったので、もしその子が嫌じゃないならうちの班に…と思い、同じ班のメンバーに「あの子呼んでもいい?」と聞いてから、委員長とその子の間に割って入りました。その時はその子も「ありがとう」と言ってくれて、修学旅行を機に仲良くなれたらいいなと思ったのですが、ある日何故か私のことを一方的に嫌ってる変な奴がその子に近づいていました。その後、その子に挨拶してもよそよそしくなり、修学旅行中も変な奴と仲良くなってたりと、こんなことなら班に呼ばなきゃよかった、仲良くなりたいなんて思わなきゃよかったと傷つきました。

「怪我(けが)・病気」の思い出

・私の人生で一番最低で最悪の思い出はうつ病になった子尾です。悲しく辛いことでした。これは私が学生時代から始まって完治するまで長い期間かかりました。人生時間が解決してくれるとは思いましたがその時の気持ちは物凄く辛いものでした。もういなくなりたい生きていても仕方がないと思うようなことが多かったですし毎日もぬけの殻のような感じになりました。私は毎日毎日そんな人生を送っていたのだと今思うととても辛く大変だったなと思います。もうこれ以上最低の思い出が起こらないように日々精進していこうと思っています。それから最低最悪の時期というのは何も良いことが起こらなくてずっと引きこもりになっていました。とても辛く闇に包まれていました。

・私は今年人生で1番と言われる本厄の年でした。最初の厄年の時も良くない事が重なってしまったので、今年は必ずお祓いへ行こうと決めていました。節分の日にお祓いをしていただいて、気持ち的にも楽になりました。しかし厄年だなと思う事が何個かあり辛い、最悪と思うで事がありました。まずはうつ病になってしまいました。何をするにも手につかず、気持ちも落ち込んでしまい、誰かに会うのも嫌で仕事を休んでしまったり…。いま現在も通院しています。最低な事は車をぶつけられてしまった事です。優先道路を運転していたら横から急に車が飛び出してきて、幸いお互い怪我も無く済んだのが救いでしたが、今まで無事故だったので、改めてこの年は体調や行動に慎重にならなければいけないなと感じました。

・私が幼稚園の頃に家族で海外旅行に行った時のことです。行きの機内で高熱を出してしまいその時点でヘトヘトに疲れてしまいました。そしてその足で現地の病院で処置を受けたことが私にとって最悪の思い出です。高熱で体がつらいのもありましたが子どもの私にとっては現地で初めて見る外国のお医者さんは言葉も分からず、絵本でよく見る青い目をした鼻の高い人で「もしかしたら変な魔法をかけられてしまうんじゃないか」と変な気疲れもありました。本当は優しく医療用の手袋で風船を作ってくれたり、ボディランゲージで楽しませていただいたようですが恐怖が勝っていたのか、その記憶はあまりなく…。高熱と異国での不安な病院受診という旅の始まりは子どもながらに悲しい思い出となりました。

・人生の中で最悪な時期は、統合失調症と言う精神科の病気になり、それからが人生の中では最悪の時期でした。仕事も辞め、自宅療養をしていました。始めは、家の片付けなどして過ごしていましたが、次第にやる事も無くなり、毎日、音楽を聴いて、眠ってばかりいました。その上、薬の副作用が有り、副作用の恐怖と戦っていました。休みは働いているので楽しいので有って、働いていなくて、毎日が日曜日になると、退屈でつらい毎日でした。生活は傷病手当で生活していましたが、自分の働いた給料で生活がしたくて、生活の不安も有り、あの頃は、今から10年近く前の頃は人生の中で一番最悪の時期でした。友達とも疎遠になり、毎日、1人で、暇で退屈で塗り絵を買ってきたり、折り紙を買って来たり、色々やっていましたが、何をやっても長続きせず、つらいだけの毎日でした。

・最低最悪の思い出は、育児休暇を終えて職場復帰した後に適応障害を発症してしまい、うつ病に近い状態に陥ってしまい、結局仕事に行くことができなくなり辞めてしまったことです。職場で育児休暇後に復帰して働いている職員が過去におらず、私が最初だったこともあり、事あるごとに職場の上司と意見が食い違うことがありました。例えば、一歳になったばかりの子どもが入院した時に日中は主人の母に付き添ってもらっていましたが、たまたま入院中に主人の祖父が亡くなってしまい付添人が私しかいなくなった時でも、有休を使わせてもらえなかったこともありました。他にも、なかなか子育てと仕事の両立に理解を示してもらえないことが多くありました。そんなこともありましたが、環境だけでなく、私自身のが色んな事のバランスをとることが上手く出来なかった事が大きな要因だとは感じています。適応障害の間はとても辛かったです。

・家族中が病気になり、家族中が暗い雰囲気につつまれた。まともな会話などなく、いつ誰が自殺してもおかしくない状況だった。自分だけ健康だったが、自分もいつ病気になるかわからなかったし、自分だけ明るく過ごすのも苦しい状況だった。このような状況が5年以上続き、いつでも家族から逃げ出すことを考えていた。友人に連帯保証人になってもらう約束し、家族にだまって家を出ることも計画した。仕事に集中することもできず、仕事を制約する必要すらあった。仕事も3度転職する必要があった。自分の人生を楽しむことに罪悪感を覚えるようになった。今はそこそこ幸せに暮らしているけど、あの頃には決して二度と戻りたくないといつも思っている。

・最悪の思いでは入院したときです。うつ病になり、精神科に入院しましたが、良くなるどころか移動範囲も限られ自由に過ごすことができず、逆につらかったです。入院すると少しは心身共に良くなると思っていたので、つらかったです。また、思考回路が完全にマイナス思考になっており、夜も寝られずその日々はとっても嫌な思い出です。個室ならまだ良かったでしょうが、相部屋で2人1部屋だったり、4人1部屋だったので、いびきや会話、独り言がもろ聞こえるのでストレスを感じ休まらずきつかったです。今思い返してもあのときはつらかったですし、もうあのような日々には戻りたくないと思います。うつだけでなく怪我や病気をした際にも入院はなるべくしたくないです。

・6年くらい前に息子が他の子供が投げた石が目に当たり、眼球破裂の大怪我を負いました。救急車で大学病院に運ばれたのですが、救急隊員も大学の救急外来の担当医師も眼球の裂傷を発見できず、大したことはないだろうと返されそうになりました。息子が帰ろうとしたときに余りの激痛に吐いてしまったので、様子がおかしいともう一度説明して眼科の意思に観てもらってようやく眼球の裂傷が分かり、眼球内の液体が流出していて眼球がしぼんでしまい、網膜剥離を起こしている事も後の検査で分かりました。結局手術をしてバックルで眼球を眼球の裏側から一生涯固定する事で網膜剥離は抑えられるようになりました。視力は甚だしく落ちましたが、失明に至らなかったのはせめてもの救いです。

・病気で苦しんだことが最低、最悪の思い出です。婦人科系の病気で主な症状は下腹部痛です。それは言葉で言い表せないぐらいの痛みですが、出産を経験した人によれば、陣痛よりもその病気の痛みの方が100倍1000倍強いそうです。そんな痛みが毎月1,2回あり、何年も毎月我慢していましたが一度だけ救急車を呼んだことがあります。毎月のことではありますが母親が「今回は本当にやばい」と思ったのか119番に電話をしました。救急車が来るまでも長く感じますが、やっと到着しても受け入れてくれ病院が決まるまで出発できないのですね。病院探ししている間も、行き先が決まってからもずっと激痛が続いていて、この痛みが一生続くのかと思いました。病院に着いてもなかなか対応してもらえず本当に苦しかったです。もうあんな辛い思いはしたくないです。

・私がまだ小学校6年生だったころ、母は事故の後遺症に悩まされていました。腰の骨に異常があるようでしたが、そのころの医療技術ではまだ、発見することができず、死ぬほど苦しんでいました。治療法もなく、家族全員途方に暮れており、ゆっくり痛がる体をさすってあげることしかできません。痛み止めもたいして効果はなく、ある朝母は日本酒を飲み、腕をカミソリで切りました。その日は弟の幼稚園の運動会ではありましたが、とても我が家はそれどころではありません。酒で意識もうろうとした母はしきりに「死なせて、死なせて、死にたいんだよ!」とろれつの回らない声で叫んでいます。父親はあわてて、カミソリと酒の入った一升瓶をとりあげ、母を抱きかかえて泣いていました。あの光景は今思い出しても地獄としか思えません。

・ズバリ言って自殺未遂をしたことです。長年うつ病をわずらっており、最近は「双極性障害Ⅱ型」と言われております。自殺というものは、実際になにかアクションしなくても「考える」だけで非常に心が壊れます。なぜならそれは「殺人」であり、自分の殺し方を延々考えるわけですから、自傷行為の最たるものです。死に場所を探してさまよう。死ぬ方法を検索する。どうやったら死ねるかが頭から離れない。「いのちの電話」に電話しても「あなたの方が病んでますよね?」と言いたいくらい暗い声の女性が出るだけで何の助けにもならない。またかかりつけ医に連絡取ろうにも、夜だったり、昼間でも「予約日に来てください」などと言われる始末。「今死にたいんだけど」と打ち明けられる相手もいない。なぜこういうとき人に相談しないかと言うと「死なないで」と言われてもそれでは何の解決にもならないし、うつというものを理解していない健常者は非常に無神経であり、話をしてもこちらが傷つくだけだからです。結局手持ちの薬を大量に飲み、救急車でICUに運ばれ胃洗浄です。何度も繰り返しました。(暗い話ですみません。)

・発達障害に気がつくことが遅かったことです。その場に適した行動を選ぶことが難しかった子ども時代、子ども同士のいじめ、その親からのいじめ、育てにくい子どもを持った母親は元からの精神的な弱さもあり、私に心理的な、時には体に虐待を行いました。私自身も元からの知能が生まれつき弱いことに加え、知識不足が災いし、逃げ場やよりどころがわからない子供時代を過ごしました。そのせいなのか、私は一般的な人付き合いがよくわかりません。わからないので一般的にはこうしておくとよい、という項目を全く理解も共感もせず、丸暗記して対応しています。ふと、信頼を置けるであろう人が何でも話してほしい、と言ってきたので私が本当に思っていることを話したら音信不通になりました。はじめは悲しかったですが、すぐにどうでもよくなりました。最悪なことは、好きなこと以外はどうでもいいと思う自分の心なのかもしれません。

「別れ」の思い出

・私の人生で最悪の思い出は、同級生が亡くなってしまったことです。高校生のころ、同級生が事故でなくなってしまいました。ちょうど学校祭が終わったあとのことでした。学校祭のおかげでクラスが団結して、その同級生とも仲良くなって、話したいな、もっと仲良くなりたいなと思っていました。そんな中の、急な同級生の死は、なかなか受け入れがたく、とても辛いものでした。同い年で亡くなってしまったことの衝撃も大きかったです。人は急に死んでしまう事があるんだ、私だって明日事故で死ぬ可能性だってなくはないんだ、と怖くもなりました。今まで、悲しいことやつらいことは他にもありましたが、どれも、今思い出せばそこまで辛くはなりません。しかし、この出来事は思い出すだけで悲しく、つらい気持ちがよみがえります。ですので、この出来事がやはり私の人生の中では一番最低な思い出であると思います。

・高校3年生の時に、高校1年生の時から付き合ってきた1つ年上の女性がいましたが、その人が先に進学で東京の方へ進むこととなりました。そのことにより、遠距離恋愛になる為、お互いに不安な気持ちはありましたが、月に1度は会いにいく、電話も出来るだけしようと決めて、不安な中、遠距離恋愛が始まりました。初めの内は、会える回数は極端に減りましたが、電話をしたりしながら、お互いがんばっていました。初めの内はそれで我慢出来ていましたが、電話以外の時間、会えないもどかしさ等徐々に積み重なっていきました。自分の気持ちとは裏腹に思ってみないことをいうようになり、泣かせるようなことも度々ありました。そして、いつからかお互いに気持ちが離れてしまい、別れることとなりました。一目惚れをして、やっと付き合えた人と別れることになってしまいました。

・私にとっての最悪の思い出は、やはり、身内の死。祖母の死です。私の両親は共働き。特に母親は毎日残業で帰りが遅く、休暇もあまりとれない状況でした。したがって私を育ててくれたのは祖母といっても過言ではないです。学校の行事にはいつも祖母が出席してました。卓球大会で恥ずかしそうに頑張ってくれてる姿は今でも思い出す光景です。そんな祖母が亡くなったのは、脳梗塞を患った3年後です。老人ホームでなくなったのですが、調子が悪くなる1週間前になぜか胸騒ぎがし、ホームに面会に。その時には言語障害があり、理解はありましたが、発語が出来ない状況でした。着替えの手伝い、その時、祖母の目から涙が流れてました。それを見て、ありがとうって思ったのを忘れません。その2週間後に祖母は無くなりました。意思表示がわかる最後にあった家族は私でした。

・父親が亡くなったことです。警察官であった父は、職業柄口数も少なく、子育ては母任せで、小さい頃は父と話す時は、少し緊張して上手く伝えられないことが多かったように記憶しています。アウトドアが趣味でスキーや登山によく連れて行ってもらいましたが、道中ではほとんど会話もなく、私も嬉しい思いをあまり伝えられなかったです。そんな父が心臓病を患い、日に日に弱っていき、最後にはおむつを使わなければならなくなりました。誇り高く威厳があった父がおむつを交換してもらう事に抵抗もあったでしょうし、恥ずかしくもあったと思います。私もどうやって接したらよいかわかりませんでした。思いのたけをお互い口のすることもなく、父は亡くなりました。もっと色んなことを話せばよかった。もっと優しくすればよかった。後悔ばかりです。

・私の人生で最低、最悪の思い出は、20歳の誕生日直前に彼氏に振られたことです。当時の私はなぜか、20歳という年齢を神聖な特別なものとして考えていました。今となってはただの人生の通過点にしか過ぎないのですが。当時つきあっていた彼氏に、20歳の誕生日には指輪(安いのでいいから)を買ってもらう約束をしていました。あまりにもうれしくて幸せすぎて、友達にも「20歳の誕生日に彼氏に指輪を買ってもらうねん」と自慢していました。ところが、20歳の誕生日の2日前に突然振られました。原因は、私が彼氏と話したこと(指輪のことではない)を友達に話し、その内容を友達が他の人に話してそれが彼氏の耳に入っていたことでした。私は秘密の話でもないし、友達がまわりに言いふらすなんて思いもしなかったから、「えっ、そんなことで?」と思いました。悪意なんかなかったのですが、「顔も見たくない」と彼氏に言われました。人にものを話す時は、もっと慎重になろうと心に決めた出来事でした。私はそれ以来、少し人間不信になってしまいました。これが私の人生最低、最悪の思い出です。

・わたしの人生の中で一番つらかった瞬間は、大好きだったおじいちゃんがいなくなってしまった時です。おじいちゃんは私がまだ幼いときに突然倒れて亡くなりました。まだ幼かったのでおじいちゃんとの記憶は少ししかないのですが、厳しい人でした。いたずらをして怒られた記憶もあるのですが、それよりもおじいちゃんと仲良くテレビを見ている光景と、いつもおじいちゃんがストーブで焼いてくれる焼き芋を一緒に食べている光景が一番鮮明に残っています。すごく優しい人でした。だから亡くなったときは、おじいちゃんの顔を見るのが怖くて近づけませんでした。ちょうど物心つき始めたころだったので、しばらく立ち直れなかったです。今でも覚えているのですが火葬場で泣きじゃくってていた記憶があります。大切な人をなくすときが人生で一番つらいです。

・私の人生の最悪なときは常にありました。若い頃から辛いと思う出来事の連続で、楽しい期間がまるでなかったような気がします。特に悲しかったのは、両親を病気で亡くしたことでした。父親は20代で亡くしましたが、それから人生を狂わせたような気がします。父親は、大黒柱だったので、亡くしてからは、私が引き継ぐ形になったわけですが、それから色々あり、仕事が安定しない、長く続けられないと悪循環にあってしまい、いつも悩み続けていたような気がします。それは未だに続いており、安定していないので、将来の不安が付きまとっているようです。一番辛い時期を静かに乗り越えたのか、最近は、穏やかになってきたので、これ以上の悪いことは起きないと信じています。

・祖父母の他界ほど辛かったことはありません。祖父は90歳過ぎるまで漁師をしていて、昔ながらの頑固で厳しい人でした。両親がいない私を育ててくれました。強いイメージしかなかった祖父は「無敵」だとばかり思っていたのです。しかし、ある日漁に出たきり帰ってこなくなりました。地元の漁師仲間や海上自衛隊など、たくさんの人たちが探してくれましたが、見つかったときには遅かったです。ただただ泣くことしかできず、人はいずれ他界してしまうことを実感しました。2年ほどして祖母も他界しました。祖母は老衰だったので覚悟をする時間はあったのですが、いざ別れの時がくると悲しく辛くなりました。今でも時々夢に出てきたり、会いたいと思うこともあります。

・友人が病気で若くして他界したことです。まだ10代の青春真っ只中に友人は病気を発症しました。即入院となり、私は毎日のようにお見舞いへ行っていました。最初は直ぐに治るからと言っていたのに、一ヶ月経っても二ヶ月経っても良くなる気配がありませんでした。そのうち病状が悪化し、友人の家族からしばらくお見舞いは遠慮してほしいと言われました。幼少期からずっと一緒にいた友人。周りからは姉妹に 間違われるほどでした。お見舞いには行けないけど、友人のために何か出来ることはないだろうかと考えました。その矢先に友人が他界したことを聞かされました。あまりに若く、早すぎる死に私はショックで泣き崩れました。何もできなかったことか悔しくて悲しかったです。

・マッチングアプリで出会った人との思いでが最低な思い出です。彼とは出会って3年ほどになりますが、振り回されてとても疲れました。最初の1年目はお互い気を使って初々しかったのですが、2年目以降は馬鹿にされたり嫌がることを強要してきたりしてきました。付き合っていたらまだいいのですが、友達以上恋人未満の関係で今思えば都合のいい女として扱われていました。でも、当時は私は彼を好きだったので、まさか自分が都合のいい女になっていることに気付かず、頑張って彼の希望に答えていました。一番嫌だったのが、当日に会おうと言われ、仕事終わりに焦って彼がいる場所に向かったら予定があるからと数分もしないうちに別れたことです。あれは本当につらかったですし、自分は何をやっているのだろうと思いました。

・祖母が亡くなったことです。もう3年以上経過していますが、未だにふとした瞬間祖母と過ごした日々が頭に浮かびます。幼いころ、うちは母子家庭で、母は仕事をしているか男性と出かけたり電話をしているかで、私に興味を持ちませんでした。はっきりそのように言われたこともあります。そのため、私にとって祖母が心のよりどころであり、安心できる唯一の家族だったのです。祖母は、祖父が亡くなってから「早く死にたい」とつぶやくようになり、その言葉どおり、持病などとくにないのにあっけなく亡くなってしまいました。私にとって祖母の喪失は、人生で最悪の思い出ですが、落ち込んでいても辛いためあまり考えこまないように気をつけています。

・以前勤めていた会社での出来事です。私が20代後半でした。とてもお世話になり慕っていた50歳の上司がいました。その上司が子会社に出向し、常務として勤務をしていました。その上司が出向先の公認会計士をナイフで殺害し、そのまま車で逃走しました。とても人望のある上司で、部下の私たちの面倒もとても良くみてくれる人でした。とうていこんな事件を起こすことが信じられず、私たちはとても動揺しました。人を殺してその上司が普通に生きているはずはないと思った私たちは、朝まで上司を探し続けました。結果はその上司は焼身自殺をはかり、亡くなっていました。どうしてこんな事件を起こしたのか、今となっては知るすべはありません。私にとっては最低最悪の思い出となっています。

「浮気・不倫・離婚」の思い出

・付き合っていた当時の彼氏に浮気されてことが人生で最低、最悪の思い出です。初めての彼氏でしたので、思い出もたくさんありました。浮気相手の方が彼氏の職場の同僚の方々に紹介され、公認のような仲になっており、私の方が遠距離だったこともあり、最後はこちらが切られる形で別れました。元彼と浮気相手はその後、彼氏の職場に就職、2人は結婚までしたのを風の噂で聞きました。しかし、浮気相手の持病が悪化し、喧嘩が絶えなくなり、同僚達からも距離を置かれ、元彼も精神を病み休職、数年後に離婚したことを元彼からの連絡で聞きました。こちらも新しい恋人があり、もちろん元彼と復縁はしませんでしたが、悪いことは出来ないもんだな、と少しスカッとしました。

・私の人生で最低、最悪な思い出は、初婚で失敗したことです。20代後半の時に、田舎の兼業農家で旧家だったこともあり、そろそろお嫁さんをもらわないとならないという事になり、地元の同じ年の女性とお見合い結婚をしました。お見合いした時は、いい感じの綺麗な女性だったので、結婚後の家庭も上手く行くと思いこみました。そして、半年後に結納を交わして婚約し、1年後に結婚しました。今にして思えば、お互い非常に真面目で古風で堅かったので、いささか古い日本の家庭のような感じで、あまり会話がなかったです。なので、結婚後もとても静かな家庭でした。でもそんなものだと私は思っていました。そのうちに、周囲から子供の話しが出て来て、そろそろ子どもを作ろかという事になりました。でもお互い経験がなくて、上手く行きませんでした。産婦人科に相談したりもしました。色々問題はありましたが、結果として、実は彼女の方が、精神病を患っている子たことが判明し、結果、子供は作れないことがわかりました。正直、それはそれで私の運命だと思って、受け入れました。が、その後、彼女が勝手に離婚届を出していました、もう振り回され続けて大変だったので、私も諦めましたが、なんでこうなったのか気持ちが混乱して、一時期、うつ病になり、泣き続けました。そんな昔のお話しでした。もう忘れたい。

・一度だけ浮気をしたことがあります。その時は、人生で最悪な日でした。私が寝てる時にスマホを見られて、浮気が発覚。そのあと、私の両親に報告され、そのあとは浮気相手と三者面談と言う最悪な状況でした。現在は子供が二人いますが、その時は子供が一人で正確に言うと四者面談でした。子供は1歳なので、その場の雰囲気には影響はありませんでしたが、嫁も号泣、浮気相手も号泣という最悪な一日でした。そのあと弁護士に相談やお金での解決など色々あり疲弊をした一ヶ月でした。ただ私の強いところは、そんなこともあったのにも関わらず、少しの間だけ浮気相手と関係は続けてました。人生で最低・最悪な思い出は私自身が作ったことでした。

・結婚し幸せな時間もつかの間、第一子妊娠時夫の浮気を乗り越え、第二子出産した数か月後には夫の不倫。熊本地震も経験し、子供と死んでしまうと思った中、そんな時でも一緒に居てくれない夫、震災の恐怖からも乗り越えたころ、夫の不倫が明らかとなり、相手と話し不倫は終わったように思えましたが、不信感は残ったまま夫婦として子供のため頑張ってきたのに、それから3年後夫の様子がおかしいので問い詰めると、不倫相手があの後、子供を欲しがり作ったと。隠し子まで作り、何度も何度も裏切られたこと。何より耐え難いのは、私は子供のため夫のことも目を瞑り、心のつらさを誰にも言えず耐えていたのは子供の心を何より守りたかったから。子供の存在を否定するように他所で子を作る行為が一番最悪でした。

・旦那が私の友達と旦那が私の友達K子と不倫していたことを知ったことです。その友達K子と私も旦那も同じミニバレーをやっておりその仲間たちといつも飲み会などを楽しんでました。その仲間の一人が旦那が不倫していると教えてくれ、友達K子の家に駆け込んでいったら旦那がいました。私は友達K子にも旦那にも裏切られ、どちらかといえば友達K子に裏切られたことが悲しくてたまりませんでした。友達K子は土下座して謝ってきました。その光景をみて友達にそんな真似をさせてしまってつらくてたまりませんでした。旦那が私と子供たちよりも自分の快楽を優先させていたことにも悲しく思いました。子供たちは旦那のことが好きでしたが、それが許せなく離婚、子供たちにも現在さみしくつらい思いをさせております

・1番悲しかった思い出は、両親の離婚です。私の父は、どうしようもないクズで、毎日のように私に暴力を奮ったり、私がバイトで貯めたお金を勝手に使ったりしてました。母親も見て見ぬふりで正直諦めかけていたのですが、昔の優しかった父にもう一度戻って欲しいという一心で毎日耐えていました。ですが私の心とは裏腹に父と母は、毎日喧嘩が耐えなくなり、ついには離婚してしまいました。確かに、暴力を振るわれたりしましたがそれ以上に家族での幸せだった思い出が、強く頭に残っていたので、とても悲しかったです。離婚が決まった時は、三日三晩泣き続けました。私は、母に引き取られ、父とは、離れてしまいましたが、月に一度か、2度のペースで会っています。あのなことをされても心のどこかでは父のことが好きで離れたくなかったんだと思いました。今では改心し、あの時のことも謝罪され、お金も全額返してくれました。

・恋愛感情のもつれで警察沙汰になったことです。私が好きな女の人に彼氏がいることがわかり、殺意を覚えました。そこで、寒い日に家に入れないようにして凍死させてやろうと考えました。しかし、それがもとで警察沙汰になり、あやうく逮捕されるところでした。幸いその恋敵の家の大家さんが間に入ってくれたため、逮捕や、それに伴う大学の退学、将来を失望しての自殺などは避けることができました。今でも何か自分の心に悪意が芽生えた時、あの時の身も凍るような状況を思い出すたびに思いとどまることができています。もし間違いを犯してしまったらそれまでの人生の努力全てが無駄になってしまうと考えると、我に返り行動に移すようなことはなくなりました。

「生活・仕事」の思い出

・人生で、最低最悪な思い出といえば、自分の性に合わない仕事に就いていたことです。私は学校卒業後、営業職につきました。営業職は、自分の性質に合っていなかったと、後年、実感しました。就職前に自分のこと、職業の内容をほとんど把握していなかったのは、大きな敗因でした。営業職がどんなものかは、就職して、嫌と言うほど思い知らされました。毎日新規のお客にアポイントを取り、お客と面談して交渉します。アポイントを取る段階で断られることも多く、面談しても商談成立とはなかなかなりません。私は始め、大抵の仕事はなんとかなると思っていましたが、大きな間違いでした。毎日が辛く、やめられる方法はないかと、いつも考えていました。結局病気になり、それがきっかけで退職しました。やめた後、開放されて、嬉しければよかったのですが、敗北感にさいなまされました。最近になってようやく、気持ちにけりをつけられた状態です。本当に嫌な思い出が、長く続きました。

・社会人になり転職をした会社の給与が、たびたび遅延している事により、生活がパンク寸前となりました。それまでは、車のローンやカード等も使用して日常生活をしていましたが、給与が遅延することと、いつ給与が入るかが明確では無い事から、通常給与が入れば支払えるローンや引き落としも払うことができず、色々考えた結果、給与が入れば返せばよいという感覚で、ローン等の支払いをする為に、消費者金融で融資をしてもらい、給与が遅れた月をしのぎました。その後、給与が入り半分は返済をしましたが、翌月も給与遅延となる可能性があると考え、半分を手元に残した結果、やはり給与が入らず、消費者金融も含めた返済や支払いを、追加融資も含めて支払いましたが、その後、転職して雪だるま式の借金を返済するまで、苦労した生活となりましたので、二度と経験したくありません。

・たくさんあるけど、一番の最悪は、直近の会社ですね。上司とは仲は悪いし(毎日、怒鳴りあって口も利きたくないくらいやりあっていた)、社内の雰囲気は最悪でギスギス、贔屓が激しいから給料は安い。どれくらい安いかと言うと30歳前後の社員が、「この給料じゃやっていけないから、辞めます」と逃げ出すくらいの安さ。しかも、同僚が逮捕されたり、失踪やカード詐欺事件で、会社の名前が使われたりと、かなり呪われたところでした。その証拠に、社員はドンドン退職。自分が辞める時は会社は空前の灯。取引先からはブラックリスト呼ばわり。先に、退職した元同僚は「良く、あの馬鹿会社に12年も勤めてたね」と呆れ返られるくらい最悪なところ。もう、人生の中で一番の汚点。記憶から抹消したいくらい、思い出したくないところです。

・短大の1回生から始まった就職活動です。最低の氷河期だったというのは後から知ったのですが、当時はもう訳がわからずもしかしたら死んだ方がましかもと思っていました。コネの無い同級生で社員になれた子は生保レディと有名ブラック会社の販売員で、就職にあぶれた自分はそれすら羨ましかったです。毎晩、リクルートスーツを着た顔の無い人間の集団が列を組んで歩いている悪夢にうなされ、一人になると勝手に涙が流れ、体重がBMI18未満まで落ちました。記憶が曖昧になる事があり、ある日気付くと鉄橋の上で身を乗り出して線路を覗き込んでいる自分にぞっとしました。そこで初めて自分がおかしくなっていることを自覚しました。自殺する人は、こんな風にふらっと死んでしまう人も結構居るんだろうなと思いました。

・昨年に見舞われたことですが、悪いことが立て続けに起こりました。勤務していた派遣会社の上司が突然、パワハラをするようになり、それがストレスになり首を痛めてからの突発性難聴。仕事には復帰したものの、原因は心因的なものではっきりしていたため、この上司の顔など見たくもなく、相手にもしたくなくなりました。事務所には行かず、そのまま解雇されるといった、ふざけた失職劇となり、意地でフリーを2か月やり、常勤職場に潜り込みました。勤務して3ヶ月で、仲の悪かった元妻が弁護士を雇い、協議離婚に踏み込んできました。こちらも1年ほどかかりましたが、裁判所での調停で私の圧勝劇となり、離婚成立。それから半年して職場の院長、師長がグルとなり、やくざのような人間を雇い、退職勧奨をしてきました。このやくざと4回、喧嘩して、その間に現在、勤務する良い職場に転職できました。全て私の圧勝劇で終わっていますが、闘っているあいだは非常に辛いものです。二度とこんなことがあって欲しくないと思います。

・20代最後に、買い物依存症になってしまい、借金を抱えて親に肩代わりさせてしまったことは、人生の汚点になりました。当時の私はどうかしていました。結婚破談からおかしくなってしまい、心の寂しさをお酒や買い物で埋めてしまうようになりました。足りない時は、消費者金融から借りまくり、最後には首が回らない状態になってしまいました。それでも買い物意欲は止まらず、さらに不倫までしてしまう結果になり、完全に自分を見失っていたと思います。本当の自分はどこにいるのか?私はなぜ、この世に生まれて来たのか?なんの役目もないなら生きていても意味がないと自暴自棄になっていたら、父から借金がバレて「嘘を重ねて生きるのは辛いだろう。本当のことを洗いざらい言ってくれ、もう遊びはこの辺でやめないか。」と涙ながらに言われました。私は、家族にこんなに迷惑をかけてしまった自分を責め、反省しました。父も母も、私を責めず「今まで辛かったね、これで少し楽になるな」と全て返済してくれました。私自身、本当に辛く悲しい時期でしたが、ここから立ち直り、お仕事に集中して両親へお金を返済しました、

・私の旦那さんは1人息子さんです。ご両親が手塩にかけて育てたあげたお子さんを私が奪い取ったかのように実家に行くと言われることです。特にお母さんが私のことをよく思っていません。息子はもう父親になって子供います。立派な大人になってもまだお母さんにとっては子供ですので溺愛する気持ちは分かるのですが息子をかわいがりすぎて私や孫をついてきたおまけみたいな扱いをされるのでそれがとても辛くて悲しいです。孫はまだ可愛がってはいますが私は運転手ぐらいにしか思われてないのが悔しいです。いつも実家に帰ると運転ご苦労さんとしか言われません。あんたのご飯食べるのと言われて本当でしたら一緒に食べるのも嫌です。主人の実家に帰るのが1番の苦痛です。

「出産・子育て」の思い出

・子供関係ですね。小さな頃からヤンチャな子でした。常に動いていて何かとやらかす子でした。子供らしいと言えばそうなんです。そのせいか、周りのお友達よりも反抗期が顕著に表れた様に思います。小学生、中学生・・出て来る反抗期の態度もドンドンと強烈になって来ました。最終反抗期は高校生の頃にやって来ます。子供は男の子で背丈は私を越しています。そのこで最終最強の反抗期がやって来ました。もとより子育てに主人はほぼ関わらない人でしたので大変でしたね。真っ暗な出口のないトンネルに迷い込んだ気持ちで一杯でした。救いは友人達でした。幼い頃から一緒に過ごして来た友人達に話す事でなんとか気持ちを保っていた記憶があります。高校を卒業する頃、憑き物が取れた様に戻った息子。反抗期の終了ですね。精神的にもとても辛い時期ではありましたが、息子にとっては必要だった様です。今では良き息子となっています。

・私は再婚です。18歳で1人出産。あんなに嬉しく産んだ子。20歳で離婚。私は育児と夜の仕事で疲れ果て離婚し子供も手放し半年感過ぎた時子供に逢いたくて毎日泣いて後悔しました。でももう遅く。その辛さが精神的にきて妊娠をなかなか出来ず10年。今では私は2人の子供を育てて居るけど、田舎に住んでいると、どこかで最初に産んだ息子の姿を見かける。大きくなった姿。私と目が合っても気付くはずもなく、名前を呼び声をかけたくなる。それを抑えながら2人の子の手を握って2度と離さないと誓いました。当時の旦那も再婚し、中学3年生の息子はどこか寂しそうな様子で いつか ごめんね って言いたい。あの時どうして馬鹿な事をした。と今でも後悔しています。

・私には小学校低学年の男の子の孫がひとりおります。長女が未婚で産んだ子どもなので、私がずっとそばでサポートしてきました。保育園時代は、病気が多いことが大変でしたが、優しい気持ちを持った子で、心が和むことも多く、私も頑張りがいがありました。でも、孫が小学生になってから、校長室に呼び出されるような悪さをしてしまったことがきっかけで、日常的に荒れ狂うようになり、ひどい時には部屋をめちゃめちゃにしてしまうこともありました。まるで突然悪魔が乗り移ったのではないかと思うような状況でしたが、いろいろ調べて発達障害があるということがわかり、それからは専門機関にも助けてもらいながらなんとかやっていますが、人生で一番悲しくてつらい出来事でした。まるで精神に異常をきたしているように暴れる孫を見ていた時が、本当に最低最悪の地獄のような思い出です。今は落ち着いて生活できるようにはなり暴れなくなりましたが、空気が読めずに暴言を吐くことは機能的に仕方ないようで、今後も付き合っていかなければならないつらい部分です。

・私の人生で一番悲しかったことは、自分が不妊だということをはっきりと突き付けられた時です。結婚してからすぐに妊活に入りましたが、すぐに妊娠できるものだと思いました。その頃は友人の妊娠出産報告も、芸能人のニュースもどれもおめでたいと思えていました。しかし、時間が経過しても全然私が妊娠することはなく、その内に身内ができちゃった結婚をしました。女性側は私と同じ年で、仕事も同じ。似通っている部分が多くて、彼女の妊娠を心から喜べませんでした。身内の結婚、おめでたい話なのに、私には到底かなわない出来事だったので、毎日泣き暮らしました。生活を改善しても、それが報われることもなく、子授けにご利益のある神社へ参拝もしましたが、神様に願いが届くことはありませんでした。両親や親類、主人に子供を抱いてもらうことはできないのかもしれないと思った時が一番辛かったです。

「動物・ペット」の思い出

・人生で初めて犬を飼い始めた頃、子犬の無邪気さに圧倒されていました。しつけも大変でしたし、何よりもちょこまかと動き回ってすぐどこかへ行きます。その日も主人が出かけるときにマンションの廊下まで着いていってしまいました。追いかけて抱き上げましたが、暴れて私が落としてしまった時、叫び声が聞こえました。足を引きずりながら私にすり寄ってきたのをみてすぐに抱き上げ部屋につれていきましたが、ずっと前足を上げて鳴いていました。動物病院に連れて行き骨折と診断され、手術が必要と言われた時にとても後悔しました。どんなに暴れてもきちんと抱きしめていれば良かったと。無事手術も終わり今では元気いっぱい走り回っていますが、二度と痛い思いをさせないように辛い思いをしないように気をつけながら過ごしています。

・わたしはありがたいことにこれまでの人生でまだ身内を亡くす経験をしておらず、とても幸せだと感じています。その中で昨年悲しい思い出ができてしまいました。それは近くに住む叔母が飼っていた犬の話です。柴犬のオスで外飼い犬でした。小さいころからとてもわんぱくで、よく逃げ出しては私の住む家に勝手にお散歩しに来ていました。そういった逃走癖があったのでいつか交通事故にあってしまわないかと家族、親戚のみんなが心配をしていました。ですが頭も賢かったようで15年の彼の人生ではそういった事故に巻き込まれることはなく、家と家の往復のお散歩を楽しんでいるかのようでした。それから年を重ねて、寝ている時間が増え、力強く走ることも減り、逃走することはなくなりました。吠えることも少なくなり家族みんなで彼の健康を気にかけていました。そんなとき、叔母から逃げ出してしまったと連絡を受けました。必死になって何日もさがしましたが見つけることはできませんでした。それが私のこれまでの人生で最も悲しい思い出です。動物の中には自分の最期を感じると見つからないところへ自ら行くという話がありますが、きっと彼もそうだったのだろうと家族と話しています。いつか彼が目の前で亡くなる日がきていたとして、間違いなく悲しかっただろうと思いますが、それでもやっぱり看取りたかったという思いが強く残りました。まだどこかで生きているんじゃないかという希望も捨てきれず、もやもやとした思いが今も残っています。もっとああしていたらとか後悔も尽きることはありませんが、彼が天国にいると信じて、日ごろから感謝と愛情を伝えられる人生にしていきたいと思いました。

「その他」の思い出

・私は海外が好きなので、英語の勉強をしています。一度だけ海外留学をしたいと思い、ビザをとるために難しいと言われる英語の試験を受けなければなりませんでした。1日4時間の勉強を半年すれば、確実に目的のスコアが取れると先生から言われ、仕事で疲れて帰ったあともとにかく4時間勉強を続けました。本当にきつくて、夜中までうとうとしながら勉強することもありました。しかし、この努力も虚しく、1回目はスコアが取れませんでした。そして、その後も半年間同じように勉強をしたにもかかわらず、結局はスコアが取れないままでした。ここまで努力をしながら結果が出なかったことは生まれて初めてのことだったので、悔しくて泣きました。もう2度とこの試験を受けることはないだろうと思います。